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2021年2月8日

住職の言いたい放題㊻「死ぬ練習を読みました」

こんにちは。住職の斉藤隆雄です。
 
今から5年前、恐山の住職代理、禅僧の南直哉さんの講演を拝聴しました。浄土宗以外のお説教を聞く機会はあまりありませんでしたので、仏教に対する見方が違いとても新鮮でした。この南直哉さんが、昨年(令和2年)に『死ぬ練習』という本を出版されました。(宝島社)
 
南直哉さんは「死」を純粋な観念であり、絶対にわからない何かである。と定義しています。生前(死ぬ前)と死後(死んだ後)の間が死。というとらえ方です。
 
南直哉さんは絶対にわからない「死」を3通りの方法で受容できるといいます。
1.体当たり玉砕法 2.90歳超え法 3.自分を大切にしない法 です。(詳細は本を購入して下さい。)「なすべきことをなし終えた」と心から思えた人にとって、死は休息であり、受容できるといいます。
 
死の受容に関しては精神科医のエリザベス・キューブラー・ロスさんが書かれた『死ぬ瞬間』を思い出します。多くの死にゆく人に寄り添い、多くの臨死患者との対話から、紆余曲折しながらも、最後は死を受容すると結論づけました。しかしながら、自身が寝たきり状態の終末期患者になると、今までの主張とは異なり、自分自身の死を受容することはできませんでした。

南直哉さんは20年間永平寺で修行をされた方ですから、著書で書かれているようにご自身は「死ぬために」「死を目指して」生きていかれると思います。
浄土宗の宗祖法然上人は「念仏というは、仏の法身を憶念するにもあらず、仏の相好を観念するにもあらず、ただ心をいたして、もはら、阿弥陀佛の名号を称念する、これを念仏とは申すなり」とお示しです。

法然上人は南直哉さんのように主観的な意識内容を表す観念で仏教を捉えるのではありません。仏教に対しては、観念ではなく、「心をいたす」信心で向き合いなさいと言われています。絶対に死を受容できない私は、お念仏の教えを信じて阿弥陀仏の救いを求めていきます。