2024年11月9日
住職の言いたい放題(73)『漢字で筆談』
こんにちは。住職の斉藤隆雄です。
治承四年(1180年)東大寺は平重衡の南都焼討によって伽藍の大部分が消失しました。大仏殿も数日間燃え続け、大仏もほとんど熔け落ちました。
東大寺再建の大勧進に法然上人に白羽の矢が立ちましたが、法然上人は固く辞退され、醍醐寺の重源を推挙しました。重源は幾多の困難を克服して、彼が組織した人々の働きによって東大寺は再建されました。
そんなご縁で建久2年(1191年)には工事半ばの大仏殿に法然上人が招かれて、浄土三部経の教えを説かれました。その堂内には浄土五祖の図像が掲げられていました。現在京都の二尊院に国の重要文化財として所蔵されています。
この図像は東大寺再建より以前、法然上人が中国の宋に渡る重源に浄土五祖図を持ち帰るように依頼したものです。当時、重源は南宋を三回訪れています。南宋で仏教を学び、建築技術や建築術を習得しました。東大寺再興の際も、その知識や人脈を駆使しています。
今からおよそ千年前、平安時代の中期には漢字による筆談という手段を駆使して、人や物が交流しました。仏教や儒教などの文化も朝鮮半島から日本に流入しました。多くの商人が来日し、日本の僧侶は中国に出向きました。
漢字で書かれた仏教経典やお経の解説書は正しい発音はできなくても、意味を理解することはできました。法然上人が建久9年(1198年)にご撰述された浄土宗の根本聖典の『選擇本願念仏集』も漢文で書かれています。
この漢字を意思疎通の手段とした中国、韓国との結びつきは変化します。日本では古文の授業より理科系の科目が重要視され、中国の漢字は省略して簡略化した簡体字へと文字が大きく変ってしまいました。
韓国では漢字がハングル文字やアルファベットに変わって、ソウル市内には漢字が少なくなっています。漢字による結びつきの減少と同時に日中・日韓関係も親密度が減少しています。今後は翻訳アプリが重宝され、漢字の出番はなさそうです。とても寂しいですね。